ホテル

 

朝五時の渋谷を出た半蔵門線は私の気持ちを汲んで心なしか速く進んでくれているように感じた。
ほとんど夜と変わらないほど暗い月曜朝方の渋谷は、クラブや安居酒屋から出たばかりの若い男女とこの寒い中でも変わらず逞しく駆けるネズミがいるだけだった。


「三十過ぎてこの時間に渋谷にいちゃだめでしょ」

ノーメイクで青白い顔をした私は低い声で男に言った。

「あぁ」

男の砂のように掠れた声はそれでもなお心地良い。

手は繋いでいる。昨日も当たり前に抱かれた。出会って半年以上経っていて、今まで幾度と無く会っている。それなのに私はこの男については何も知らない。

住んでいる場所、今現在結婚しているかどうか。私に対してどんな感情を抱いているのか。知らないし知る必要もなかった。

お互い都合のいい時だけ会って飲んで、セックスをしてホテルに泊まる。頭の回転が速い男の軽口はどこまでも現実味がなく、信じて疑うことすら馬鹿馬鹿しい。

ただ、今回はこちらの温度が下がった分だけ冷静になってこの男はどうしても私に会いたかったんだなということだけはわかった。しかしそれを愛情と捉えられるほど私はもう若くない。


酷い時差ボケのせいで午前二時に目覚めた私は二度と眠れることはなかった。

しなびたラブホテル、男のかすかな鼾、時折鳴る男の電話とラスベガスで過ごした夜のこと。

眠れない理由はいくらでもあった。

 

眠れない時は例に漏れず携帯電話を触ってしまう。

facebookを開くと異国の夜を毎晩欠かさず共にした男から私の投稿に「いいね」が押されていた。投稿には彼が写っている写真もある。

あのいっときの欲情と恋愛感情が肯定されたような気がして、私は深く安堵した。


今隣で寝ている男とはとても体が合うと思っていたのにそれを遥かに超える男と出会ってしまい、古臭さが染み付いたラブホテルで眠れずにいる私自身がどこまでも滑稽で救いようのないものに思えた。
これまで少なからず男性に抱かれ、身体が合う肌が合うということがどれだけ尊い奇跡かを知っているだけにほとんど絶望に近い感情抱いた。

合ってしまうという事実は変えられないし変えられない事実はもはや真実だ。
そして一瞬でも真実という陳腐な言葉が浮かんだことがまた滑稽だった。

 

同じ会社の男女が会社の出張で訪れたラスベガスで四日間欠かさずただセックスしていただけだ。男には妻子がいる。私にも彼氏という立場の男がいる。これ以上でもこれ以下でも何でもない。

でも彼は、私の全身から溢れ出した欲情を綺麗にすくって丸ごと抱いてくれた。お互い達するのが日に日に早くなり、誰と触れ合っても眠れない私は毎晩彼に抱きついて眠った。

 

彼と私は部署も違えば仕事でも全く関わりがないので当然日夜別々に行動しているし通信状況の悪い土地では連絡もままならない。

 

そんな中ある夜彼は部下からの誘いの電話を無視して私を抱いた。

 ある夜はホテルに併設するスーパーで買い物をしていた私を誰に見られるかもわからないのに迎えにきて部屋に連れて帰った。

 最終日は彼のチームで行くランチに全くの部外者である私を誘ってそのまま下品で豪奢なラスベガスの街を散策し、夜はまた別々に過ごした。

連絡が途絶え、彼が寝てしまったことは明らかだった。

疲れているだろうからセックスなどしなくていい。せめてさようならとありがとうくらい言わせ欲しいとほとんど祈りに近い思いだったが、電話をして起こすほどの勇気も図々しさも持ち合わせてはいなかった。

一時間だけ仮眠した彼からのメッセージを受け取った時。恥ずかしげもなく言いたくなった。これは恋だと。


私のフライトが一時間早く経由も違うのでまだ暗い中ホテルをチェックアウトをして重たいトランクを引きずり一人タクシーで空港に向かった。フィリピン人の陽気な運転手には「ラスベガスは最高だった。次は観光でまた来たい」と無邪気に伝えたが「毎晩死ぬほど抱かれてもまだ足りないと思えるなんて奇跡よね」と言うことは避けて、黒い革張りの後部座席に身を預けた。

 

気付いたのは二日目からだった。こんなに自分から求めてたのはどれくらいぶりだろう。どこを触れられても震える程の快感に襲われた。

そんな自分がもどかしくて恥ずかしくて、激しくして、早くいれて、もうやめて、やっぱりやめないで。

思い出している私の顔からは全てが透けて見えるだろう。ここは異国の男が運転する車の後部座席だ。せめて空港に着くまで、記憶にしがみ付くことにした。

 

男に興味を持ったのは日本を発つ半月ほど前で、明確に抱かれたいと思ったのは二日前の事だった。仕事に対する姿勢だとか、話し方だとか見た目だとか、そういったものよりも本能的にこの人は合うだろうなと感じる男がいる。今隣で寝ている男もそうだったはずなのに。

とにかく合うと感じてしまったら最後、私は必ず抱かれる。


私に気を使ってかは知らないが彼もすぐ空港に到着したと言うので彼の経由のサンフランシスコに向かう54番ゲートでコーヒーを飲みながら談笑するふりをして別れを惜しんだ。


ロサンゼルス行きの11番ゲートに一緒に向かうも他の社員が増え過ぎて、途中で別れた。触れることもできないのでお辞儀だけして彼に背を向けてゲートに向かった。

連日の寝不足と蓄積された気怠さで一時間ほどのロサンゼルス行きの飛行機では一瞬で意識を失い着陸の衝撃で目覚めた。ラスベガスでは青空しか見なかったのに何かの暗示か比喩かと思うほどわかりやすく、ロスでは雨が降っていた。適当に食事と買い物を済ませて乗った羽田行きの飛行機の中で私は泣いた。彼が勧めた映画に感動したからではない。もうあの夜が二度と来ないことを悟ったのだ。

 

換気扇を切った。それでもまだ気になるか気にならないかほどの音量で暖房が呻っている。

トランクを引きずるのが辛いほどの分厚い絨毯が敷かれた少し古めかしくはあるが高級と言っても決して否定はされないホテルに泊まっていたのに、今はいつ崩れるかもわからないようなラブホテルにいる。

こう言う時に私は神の存在のようなものを感じる。寒い東京でのグロテスクな現実に引き戻すにはあまりに強引じゃない?と嘆く都合のいい存在として。

 

変わらず眠れないのでLINEを立ち上げ、彼氏というカテゴリーに置いている男に連絡をした。

「この関係を続けるのは難しいから次会うときは友達として会いましょう」

 会う必要なんて無いくせにすぐこういう建前を出してしまう。

 

今会いたくて触れたいのは一人だけなのに。それなのに私は今、違う男と道玄坂のラブホテルにいる。

 

四時半になり、男の携帯からアラームが鳴った。珍しく深く眠っている男が起きる気配はない。

 

「起きて」

 

薄っぺらいガウンを着て寝ている男に裸で抱きつく。男はほとんど無意識に力を込めて私を抱きしめた。服を着ていると目立たないがかなり鍛えられている男の体が好きだったのに、一回り華奢な男を思い浮かべて目を閉じた。

 

「行こう。始発で出ようよ」

 

声が冷たくならないように努めようとしたが、もうどうだってよかった。

暖房が少し大きく呻ったように感じた。