「いやいや、コンビニあるじゃん」

 

夜中の二時過ぎ、私はホテルの一室で声に出した。いや実際は出していなかったかもしれない。定かではない。

 

赤坂御用地を見下ろすような位置に建っているこのホテルは華美な内装がいかにも古めかしく、その分客室はやけに静かで落ち着いているように思え一人でいても居心地は良い。あえてツインにしたのはただ単に広い部屋が好きなのもあるが、ラスベガスで過ごした夜の印象を損ないたくない気持ちもあった。

 

さっきまでこの部屋に私以外の誰かがいたことなど嘘だったんじゃないだろうか。男の影も形も面影も匂いも、もはや何も感じられなかった。

 

中途半端に酒を飲み中途半端に酔って、セックスして男を駅まで見送り今に至る。連日会社を休んだ私の生活リズムはめちゃくちゃで、眠くなるわけがなかった。

 

脱がされるためだけに着てきた服など放って全裸で過ごしていたがいい加減シャワーを浴びようと思い、抱かれるためだけに施した化粧を落とそうと洗面台を見ると驚くほど何もないことに気が付いた。
さすがに化粧水や乳液がない状態で顔は洗えない。そしてなぜ私は持って来なかったんだろうか、一日暇していたというのに。またあんなところまで買いに行かないといけないの?


赤坂見附の駅前から手を繋ぎホテルに向かう頃には私は随分悪酔いしていて寄り道ができず一直線にホテルに行くよう促した。
気分が悪い時は視覚的な刺激を極力受けたくないのに自分が選んだホテルとはいえ時代遅れの豪奢な内装に少しばかりの苛立ちを覚え、男の名前をどんな偽名にしようか事前に考えておけばよかったと毎度のように悩みながらチェックインをしたものの結局飲み物も何もないのでコンビニを目指し豊川稲荷も超えて五分くらい歩くことになった。

 


「春になったらお花見したいです」

 

そう言ったのはまだまだ冬の寒さでしかない二月の終わりの頃だった。
男性に自分の希望や要望を伝えることをできるだけ避けていたつもりではあったのに自分から言うなんて。しかも、こんな関係で。
「水族館で魚が見たい」
更に言ったのは寒さが緩む日と冬と変わらない日が繰り返される三月はじめの出来事だった。

 

「に行きたい」
「を食べたい」
「をしたい」
「会いたい」
自分から希望を伝えないようにしていたのはいつの頃からか。何かを期待して、叶えられなかった時少しでも傷付けられたくないような関係が続いていたのだろう。
希望せず期待せず何も叶えられず何も与えず。そこに男女がいるだけの関係は得るものがない代わりに失うものもなく単に気が楽ではあった。

 

 

外に出るとまだまだ気温は低く、過度な酔いはだいぶ落ち着いた。

 

「桜咲いてる」

 

ホテルに来る時はもちろん見えてはいたものの気分が悪くて気にかけていられなかった。改めて見れば三月もまだ頭だというのに、気の早い一本がほとんど満開になっていた。
男と手を繋いで桜の木の下まで向かう。近くで見ると一本でも、凄い存在感だ。真下から見上げると暗い夜空に白い花が赤い提灯で照らされて艶っぽい。ああ、だから私は桜が見たかったんだ。

 

「もう満開じゃん」
「これはまだ、八分です」
「厳しいね」
だって満開になった瞬間散り始めるじゃないか。まだ散っていない。まだ散らないでしょう、ねえ。

 

桜は男と見るものだ。などと常々思っていたが去年の春、私は桜を見る余裕すらなかった。今の会社に入って半年くらいの記憶がほとんどない。
慣れない仕事、合わない同僚、知らない製品、関わったこともない業界、必死にやっていたつもりだったが夏になるころに私は折れた。そこから何とか立ち直ってここまで来たのに、また私は折れた。今回は立て直せる気がしない。

 

桜は男と見るというのは、わかりやすく男女の関係、更には結婚している男性との関係を重ねているからだ。跡形もなく散ることがわかっているから美しいのだと。

 

だからこそ「花見をしたい」のはわかる。なのに「水族館に行きたい」だなんて。彼はもちろん否定も躊躇もせず「いいね、行こうよ」と言ってくれた。それを聞いて少し涙ぐんでしまったことを思い出した。寒さのきつい日で、雑多な渋谷を二人で手を繋いで歩きながらだった。彼の手はつるつるしていて柔らかで温かく優しい。


今日私は引き続き会社を休んでいたし、彼も仕事を早く切り上げてくれたのでいつもより早く集合していた。いつもと同じように駅で彼を見送るまで六時間くらい一緒にいたが、いつもと同じように一瞬で過ぎた。そして私は今全裸でホテルの部屋にいて、これから化粧水を買いに行かなければならない。
どうせ眠れないのなら今からまた飲みに出てしまおうか、でもこんな二時を過ぎた赤坂見附に開いている店なんてあるのだろうか。iPhoneで地図を開いた。

 

「いやいや、コンビニあるじゃん」

 

ホテルのすぐ裏に、距離で言えば何時間か前に行った場所の半分くらいか。高級住宅街に向かう道にはきっと桜も神社もなく、静まり返っているだろう。もちろん飲み屋など全くない。仕方なくワンピースを着てコートを羽織り、マフラーを巻く。 

 

「晴れた日の下で桜も見たいし暑い日に涼しい場所で魚も見たい」


これは声に出さなかった。ここはホテルの一室。ボルドー色のハイヒールを履いて、静けさしかない部屋を出た。厚い絨毯のせいで私の足音すらかき消され、ドアが閉まる音だけが残った。